published at 『Michihiki』2015.1 vol.27
特集:Movie in her eyes
文学と邦画のそのあいだをとらえる『Movie in her eyes』。今回はみずみずしい感性で本と映画とのあいだを行き来する20代、Kyomi Shiraishiさんが観た『サヨナライツカ』です。
小説が映画になると大抵劣化すると思う。それは読者によって想像された物語のイメージがあるから、とかそういうのではなくて、小説で筆者が大事に大事に描いてきた情景や心情が、言葉という媒体を失ったままにスクリーンに吐き出されてしまうから。それらを、視覚と音声にして、どれだけ実態を持たせるか、また、磨いてスクリーンの上で光らせるかが映画化への鍵であると私は思う。
今まで小説が映画になった作品で、納得できたのは江國香織の「東京タワー」だけだった。空気の匂いが増す映像美と、演者の声の色気あるトーン。小説を読んで感じ取ることのできなかった隙間を、映画が埋めてくれたのがあの源孝志監督の『東京タワー』だった。
その点で『サヨナライツカ』の映画版は、映画になってこそ発揮される効果がきちんと拾い上げられていると感じた。映画としての作品にするまでに、かなり細部まで小説の世界を読み解き、理解して制作されたのだろうという映像の作り方を感じた。
タイ・バンコクの熱帯夜。
パッポン通りの喧騒。
ザ・オリエンタル・バンコクオーサーズスイート、サマーセットモームスイートの豪華絢爛な内装。
電話の音。
タイ語の語感。
物語の重要な要素となっている、色や質感や温度の見せ方。これらが映像になることで想像と実態が結びついて、より魅せられた。熱帯夜やバンコクのあの喧騒は、整然とした都市と自然のたゆたう日本にいるとなかなか想像ができないものだ。映画になって、鮮明になった肌の感覚と、そこからじわっと立ちのぼる情感が見えてくる。バンコクには、一度行ったことがある。火遊びのような恋はまだ経験したことがないが、バンコクのあのまとわりつくような湿気と、映画から感じる空気感がつながって、鑑賞後はなんとなく危ない恋を疑似体験したかのような熱を帯びた。
そして、一番に気に入った点。
小説ではあまりセリフもなく、淡々と描かれていた婚約者、光子の描写がすばらしかった。小説では控えめで、夫の二歩後を歩くような光子。映画では石田ゆり子さんの眼差しとともに、光子の人となりや強さ、凛とした感情が描かれていた。奔放な沓子と、奥ゆかしい光子の対比、という垣根を越えて、光子が一人のまっとうな女性としてのあるべき姿を提示していた。それでも光子はあくまで脇役であって、物語の本筋には関わらない。それによって、道を踏み外している沓子に同情するべきなのか、それとも清く正しい光子に同情するべきなのか、とても考えさせられる構成になっていた。
沓子役の中山美穂さんは、夫である辻仁成の小説の映画の主役として沓子を演じた際、「愛したことも愛されたことも思い出したいと、彼女は思ったのかもしれない」と感じたという。一時一時をむきだしの愛で過ごすと、愛憎と後悔に塗れることもある。そんなことをいとわずどこまでも飾らない愛で目の前の男を愛し、老いた後、過去を上塗りせずに生きる。そんな沓子の愛と生き方は、実はとても美しいのではないだろうか。
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Writer | Kyomi Shiraishi
横浜市立大学 国際総合科学部 国際教養学系 卒業。
ソニーのIT部門で海外ブランチを含めたIT戦略担当・プロジェクトマネージャーを務めたのち、青年海外協力隊としてアフリカに渡航。現在は国際開発・環境系のコンサルタントとして活躍。
プライベートではフィルムカメラ、古風なCCDセンサー機のAPS-Cデジタル一眼を愛し、2006年発売のNikon D40をメインカメラとして写真活動を展開。アート、文学、写真、音楽と、幅広い文化感性とともに今を生きる20代。
2014年12月『Michihiki』第26号掲載