published at 『Michihiki』2014.12 vol.26
原田マハ著「楽園のカンヴァス」を読み終わったときの第一印象、それは、私の読書に対するすべての期待を裏切らなかったということ。むしろ、自分が期待していなかったところにまで満足の波がゆるゆると到達してくるのを感じて、これまでにないほど満ち満ちた気持ちになったということ。「冷静と情熱のあいだ」BluとRossoの二冊が至高の作品だった私にとって、こんなにも心を揺さぶられる読書をしたのは10年ぶりのことだった。
原田マハの「楽園のカンヴァス」は、フランス画家アンリ・ルソーの名画『夢』をモチーフとし、この絵に纏わるノンフィクションの史実と、フィクションのストーリとを織り交ぜて描かれた作品である。
謎多き大富豪に呼び寄せられた高名な絵画研究家、ティムと織江の二人。はるばる訪れたスイスの大邸宅で、二人はルソー最大の代表作『夢』に酷似した、この世にあるはずのない未発表作品を目の当たりにする。世紀の名画とよく似た、得体の知れない未発表作品との対面に驚きを隠せないまま、二人はさらに不可解な注文を受ける。この未発表作品のハンドリング権という前代未聞の賞品をかけて、元天才的なルソー研究家、織江と、世界に名だたる現代美術館のキュレーター、ティムは初対面ながらも対決を迫られるのだ。
対決の手法は、この未発表作品がルソーによって描かれた真作か、それとも誰かが発表済みの名画に似せて描いた贋作か、その真贋を判定するというもの。判定の手がかりは、富豪が所有するある一冊の古書。未発表作品にまつわる物語が綴られている。この物語を一日一章ずつ読み進め、7日後の判定会で真作か贋作かを判定する。質の高い判定が出来た者一名には、謎の絵画を自由にできるハンドリング権という、想像のつかない価値をもった褒美が与えられる。その絵の真贋が、たとえ判明しなくとも。
古書に綴られた事実とも創作ともつかない不思議な物語に翻弄されながら、二人は持てる美術知識と美的感覚のすべてをかけ、全力で亡きルソーの想いと絵の謎に迫っていく。
個人的に、絵の話は好きだ。美術品を前にすると、人は途方もない遠い過去の中で、作者がキャンバスに感情をぶつけたその瞬間に立たされる。
“人間は永遠には生きられない。しかし絵画は生まれた瞬間から、時代の人々の手を渡り、永遠に生き永らえることができる。”
絵画修復士が登場する本でそんなフレーズを読んだことがある。絵画に真摯に向き合うことはつまり、時代の歴史と向き合い、当時の社会や思想を知り、今は亡き画家の思いに寄り添うということ。画家がカンヴァスに絵の具をぶつけたその瞬間の情熱や祈りを、遠い未来から想起するという果てしない作業である。修復士という仕事の場合、そんな作者の当時の情熱や祈りを、古びたカンヴァスから敏感に感じ取って再現していく使命があり、美術キュレーターや研究者には無数の絵画から掘り起こして世に広める使命が、そして美術館監視員には、絵画そのもの自体を次の時代へ手渡すべく守りぬいていく使命がある。絵画にまつわる職業はどれも、果てしない時間軸の中の一部を担う壮大な仕事だ。
この本に登場するのは二人。世界に名だたる近代美術館MoMAのキュレーター、ティム、そして元天才的なルソー研究者であることを隠しながら、美術館の監視員をしていた織絵。ティムは幼いころにルソーの『夢』に魅せられ、ルソー絵画を追い続け、MoMAのキュレーターにまでなった情熱家。それに対する織絵は、パリの大学で史上最速で博士号を取得するほどの優秀な絵画研究家だったにも関わらず、監視員としてひっそりと絵画を見守る人生を選択した人物。二人はもちろん、ルソーや絵画について、知識としては同じ史実を把握している。しかしそれぞれのルソーに対する考え方、さらには性格、人となりにおいて、絵画に対する解釈が異なっていくのが非常に興味深い。ただし、物語の中で彼らの役職や職業にも変化が現れるが、どんな職業のどんな人のアングルからであっても、美術を職業とする人間の、絵画に対する思いは変わらない。そんな熱を物語の中から感じられたのがよかった。
また、「楽園のカンヴァス」では、3つの時間軸が登場する。ルソーによって謎の絵が生まれた時代、その後ハンドリング権をめぐって主人公二人の対決が行われた時代、そしてその後の時代。この3つの時代を読者は本を読み進めながら行ったり来たりさせられる。このことによって絵画の持つ果てしない時間軸を意識させられると、自然と作品自体に深みを感じていく。登場する舞台も様々。現代の日本の生活感あふれる描写から、ニューヨークの至高の現代美術館MoMAのオフィスへ。そこからいきなり過去のスイスに飛び、さらに芸術家たちが現代美術への変革期を迎える19世紀のパリへ。一枚の絵が脈々と継がれてきたその歴史を追いかけるかのように、物語は時間軸と世界地図の中を自在に飛んでいく。特に絵が生まれた19世紀のパリの描写については、近代美術が花開くまさにその次代に自分がいるような感覚さえ覚えるようなみずみずしい情景が表されている。画家、詩人、作家たちの、芸術に対する熱を帯びたあこがれ、そして向上心。本はモノクロの活字の世界なのに、「楽園のカンヴァス」からはそれらが荒々しく油絵の具を塗りたくったようなビビッドさで伝わってきた。
未発表作品の真贋を見極めるラストに向かって、様々な伏線が現れては動いていく。それらは原田マハによるフィクションの伏線だけでなく、キュビズムの歴史的な事実に基づくものも多く登場する。美術史を知る人にとっては、作者自身による史実の利用の巧みさに驚きを持って読み進めることができるし、美術史に詳しくない人にとっても、何が事実で何が創作なのか分からない、というミステリー感にわくわくさせられる。普段覗くことができない美術館の裏側やコレクターの世界を知ることができ、美術への興味が掻き立てられるのもこの本の魅力。さらに、ミステリーの後には心あたたまるラブストーリーが待っている。
美術の気品に溢れ、巧みなストーリー展開を持ち、繊細な心理描写で綴られるこの本は、まさに完成された隙のない美術品のようだった。
–
Writer | Kyomi Shiraishi
横浜市立大学 国際総合科学部 国際教養学系 卒業。
ソニーのIT部門で海外ブランチを含めたIT戦略担当・プロジェクトマネージャーを務めたのち、青年海外協力隊としてアフリカに渡航。フィルムカメラ、古風なCCDセンサー機のAPS-Cデジタル一眼を愛し、2006年発売のNikon D40をメインカメラとして写真活動を展開。アート、文学、写真、音楽と、幅広い文化感性とともに今を生きる20代。
2014年12月『Michihiki』第26号掲載